戦国時代

戦国時代(1467〜1590) 群雄割拠の日本史最大の変革期

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もしも羽柴秀吉が賤ヶ岳で敗れ、柴田勝家が天下を握っていたら世界線を徹底考察

もしも羽柴秀吉が賤ヶ岳で敗れ、柴田勝家が天下を握っていたら?世界線を徹底考察

史実の背景

賤ヶ岳の戦い(1583年)は、本能寺の変で織田信長が没した後、後継の主導権を巡って羽柴秀吉と柴田勝家が激突した合戦である。清須会議で秀吉が信長の嫡孫・三法師を擁立し発言力を強めたことに対し、勝家は信長の三男・織田信孝と結んで対抗した。緒戦は勝家方の佐久間盛政が秀吉方の砦を陥落させるなど優勢に進んだが、盛政が撤退の好機を逃したところへ、大返しで戻った秀吉本隊が奇襲をかけ、さらに前田利家隊が戦線を離脱したことで勝家軍は総崩れとなる。秀吉はこの勝利によって織田家中における事実上の主導権を確立した。

分岐点:どこで歴史が変わったのか

この世界線の分岐点は、前田利家が戦線離脱を思いとどまった瞬間である。
利家は勝家とは旧知の仲でありながら、秀吉とも深い親交を持っていた。史実では土壇場で兵を退き、これが秀吉方の勝因の一つになったとされる(※この離脱の動機は諸説あり、事前の密約説と単なる劣勢判断説の両方が伝わる)。本世界線では、利家が「勝家殿を見限るには忍びない」と踏みとどまり、むしろ秀吉方の側面を突く形で戦線に留まる。頼みとしていた利家の裏切りが不発に終わったことで、秀吉方の攻勢は勢いを失い、戦況は一気に膠着から劣勢へと転じていく。

この世界線の羽柴秀吉

この世界線の秀吉は、勝機を確信していたところからの急転直下の劣勢に、持ち前の楽観と計算高さを試されることになる。史実の秀吉は逆境でこそ機転を発揮する人物として知られるが、この世界線ではその機転が及ばないほどの速さで戦況が崩れていく。それでも最後まで諦めず、戦場を離れてなお毛利氏を頼って再起を図ろうとしたと伝わる。「ここで終わるわけにはいかぬ、まだ手はある」と側近に語ったという逸話が、この世界線ではまことしやかに語り継がれている。天下人としての栄光まであと一歩に見えた男の、最後まで諦めきれないしぶとさこそが、この世界線の秀吉像を特徴づけている。

この世界線の歴史

賤ヶ岳で敗れた秀吉は近江から撤退し、居城・長浜城の維持も難しくなる。秀吉は毛利氏を頼って中国地方へ落ち延びる道を選ぶが、これは勝家方にとって最も警戒すべき動きでもあった。かつて秀吉自身が中国大返しで見せた迅速な用兵は、勝家方の追撃にも応用され、秀吉一行は道中で捕捉されてしまう。勝家は、三法師を擁して権力を握ろうとした秀吉のやり方を織田家の秩序を乱す専横とみなし、これ以上の台頭を許さぬため処断することを決断した。

秀吉という最大の脅威を排した勝家は、織田信孝を旗印に据えて実権を握るが、織田家中にはもう一人の後継候補・織田信雄と、それと結ぶ徳川家康の存在があった。信雄・家康連合は勝家・信孝方の急速な台頭を警戒し、史実の小牧・長久手の戦いに相当する衝突が、この世界線ではより早い段階で発生する。秀吉という共通の脅威を失ったことで、皮肉にも織田家中の対立構造は秀吉生存時よりも先鋭化し、決着のつかない長期戦へともつれ込んでいく。

その後の世界

秀吉という、当時最も勢いのあった織田家臣を失ったことで、その後の日本史には天下人不在の期間が史実よりも長く続くことになる。勝家・信孝方と信雄・家康方の均衡は簡単には崩れず、両者は織田宗家を軸とした緩やかな連合という形で手打ちに至る。特定の個人が天下を統一するのではなく、有力大名の合議によって秩序が保たれる体制が定着していった。
秀吉が切り開いたはずの大坂という都市も、天下人不在のこの世界線では一地方の商業拠点にとどまり、政治の中心は近江・安土や岐阜など織田家ゆかりの地に留まり続ける。天下統一という求心力を持つ人物が現れなかったことで、各地の大名家がそれぞれの城下町で独自の産業・文化を育てる土壌が生まれ、単一の中心都市を持たない多極分散型の国家像が形成されていく。
秀吉個人については、「あと一歩で天下に手が届きながら、最後は同じ織田家臣同士の争いに敗れた男」として、判官贔屓的な人気を集める人物として語り継がれることになった。判官贔屓(弱者・敗者への同情)は日本の歴史語りにしばしば見られる心情であり、この世界線の秀吉も、成し遂げた者ではなく成し遂げられなかった者として、後世に強く記憶される存在となっている。
現代の日本は、特定の都市への一極集中ではなく、複数の地方都市がそれぞれ独自の経済圏・文化圏を保ちながら緩やかに連携する、分権的な国家として発展している。

まとめ

この世界線では、前田利家が土壇場で踏みとどまったことで、勢いに乗っていた秀吉は主導権争いに敗れ、非業の死を遂げることになる。最後まで諦めなかったその往生際の悪さこそが、この世界線の秀吉を「惜しくも天下を逃した男」として後世に強く印象づけている。天下人という一極の権力者を生まなかったこの世界線は、有力大名の合議による統治構造を生み出し、現代まで続く多極分散型の日本社会の土台となった。

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この世界線の展開や、もしもの物語が浮かんだら、コメント欄でそっと教えてくださいね。


本記事は史料・通説をもとに、伝承・逸話・諸説も参考にして構成しています
■参考文献
『だれが信長を殺したのか』桐野作人
『本能寺の変』藤田達生
『本能寺の変の再検証』熊田千尋
『豊臣秀吉』堺屋太一
『秀吉の虚像と実像』藤田達生
『太閤秀吉』小和田哲男
運営
本記事はHAZUMU RHYTHMが監修・編集しています。

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