戦国時代

戦国時代(1467〜1590) 群雄割拠の日本史最大の変革期

もしも織田信長が世界進出をしていたら?世界線を徹底考察

もしも織田信長が世界進出をしていたら?世界線を徹底考察

※本記事は史実をもとにした歴史考察記事です。 実際の歴史とは異なる仮説・創作的要素を含みます。

史実の背景

16世紀後半、日本は大航海時代の波に洗われていた。ポルトガルは1557年頃にマカオを拠点とし、スペインも1571年にマニラを建設するなど、ヨーロッパ勢力は東アジアの海に本格的に姿を現していた。堺や長崎には南蛮船が来航し、鉄砲・火薬・世界地図といった新しい知識が日本へ流れ込んでいく。

織田信長は、こうした南蛮文化に強い関心を示した数少ない戦国大名だった。宣教師ルイス・フロイスの記録によれば、信長は「地球は丸い」ということも理解していたとされる。また、天正6年(1578年)の第二次木津川口の戦いでは、鉄板で装甲したと伝わる大型軍船「鉄甲船」を投入して毛利水軍を破っており、海上戦力の価値も早くから認識していた。

日本からヨーロッパへ向かう動きも、この時期に始まっていた。天正10年(1582年)2月、イエズス会の巡察師ヴァリニャーノの発案により、九州のキリシタン大名の名代として4人の少年が長崎を出港する。一行はマカオ、マラッカ、ゴアを経て喜望峰を回り、1584年にリスボンへ到着。スペイン国王フェリペ2世やローマ教皇グレゴリウス13世に謁見し、1590年に帰国した。日本人の使節がヨーロッパで公式に迎えられた画期的な出来事だったが、派遣したのはあくまで九州の一部の大名と宣教師であり、中央政権としての日本が世界へ向けて動いたわけではなかった。

さらにフロイスは、信長の死後にイエズス会へ送った報告の中で、信長が毛利氏を平定して日本全土を掌握した暁には、一大艦隊を編成して中国(明)を武力で征服し、子息たちに分け与える構想を持っていたと記している。ただしこの話は日本側の史料には見られず、フロイスの記録にしか登場しない。明への布教を悲願としていた宣教師側の脚色が混じっている可能性も指摘されており、信長が実際にこうした構想を抱いていたかどうかは、研究者の間でも評価が分かれている(※諸説あり)。

いずれにせよ、天正10年(1582年)の本能寺の変により信長は世を去り、「海の向こう」への構想が実行に移されることはなかった。のちに豊臣秀吉が朝鮮出兵(唐入り)を実行するが、信長自身が海外へ兵を送ることはなかったのである。

分岐点:どこで歴史が変わったのか

この世界線の分岐点は、天正8年(1580年)、石山本願寺との講和が成立した直後の判断にある。

史実では、鉄甲船をはじめとする織田水軍がその後どのように運用されたのかを伝える記録は乏しい。しかしこの世界線では、信長は本願寺攻めという一つの目的を終えた水軍を解体せず、フロイスが記したとされる大陸への遠征を見据えて、恒常的な国家の水軍として拡充する方針を固める(※信長がこの時点で海外遠征を具体的に構想していたことを示す確たる史料はなく、本作独自の解釈である)。九鬼嘉隆は水軍奉行として、鉄甲船の増産、乗組員の常設的な訓練、堺・大坂での造船と補給体制の整備を任された。

この世界線の織田信長

この世界線の信長は、天下統一を「目的」ではなく「通過点」として捉える人物として描かれる。国内を平定した先に何を成すのかという問いを、史実の信長以上に早くから自らに課していたと言える。

信長の念頭には、現実的な事情もあった。天下統一が成れば、家臣に恩賞として与える新たな領地は国内からなくなってしまう。海の外に新たな領地や交易の拠点を求めることは、その問題への一つの答えでもあった(※これは本作独自の解釈である)。完成しつつある艦隊を前にして、信長は側近に「陸の天下は、じき終わる。その先をどうするかが、まことの問いよ」と漏らしたと伝わる。この言葉は、この世界線ではまことしやかに語り継がれている。

ただし、信長は夢想家ではなかった。艦隊の整備、港湾の管理、補給の仕組みといった実務を一つずつ積み上げていく姿勢は、桶狭間や長篠で見せた合理主義そのものであり、海外進出もまた、勢いではなく計算の上に進められていった。

この世界線の歴史

拡充された織田水軍は、瀬戸内海の制海権を確実なものにしていく。毛利氏は瀬戸内の水軍力を支えの一つとしていたが、海上の補給・連絡路を圧迫されるようになり、天正10年(1582年)春、領国の一部割譲を条件に織田家との講和を選んだ。史実で信長が自ら中国方面へ出陣するため京へ向かっていた時期、この世界線の信長には、そもそも出陣する必要がなくなっていたのである。

信長がこの時期に向かったのは、艦隊の整備拠点である堺であった。折しも、四国攻めのため織田信孝と丹羽長秀の軍勢が大坂・堺周辺に集結しており、信長はその兵力に守られた状態で、完成した艦隊を視察する。堺に滞在していた同盟者・徳川家康も、その視察の場に招かれた。京に信長の姿がない以上、史実で語られるような事件の舞台は、そもそも整わなかった。

その後、織田政権は四国・関東・東北を相次いで平定し、数年のうちに天下統一を完成させる。信長は予定通り、艦隊による海外遠征の準備に着手した。ここで信長が遠征軍の総指揮官に選んだのは、兵站と交渉に長けた羽柴秀吉である(※この人選は本作独自の解釈である)。秀吉は、中国攻めで磨いた補給線の構築力を買われ、史実の朝鮮出兵のように現地の補給を軽視することなく、艦隊による海上輸送を軸にした慎重な計画を組み上げていった。一方、徳川家康は東国と本国の守りを任され、海外には出ない役回りとなる。同じ重臣でありながら、海へ向かう秀吉と陸を守る家康という、対照的な立場がここに生まれた。

遠征の目標は、フロイスが記したような明の武力征服ではなく、対馬海峡から朝鮮南岸にかけての拠点確保と、大陸との通商の確立に置かれた。艦隊は朝鮮水軍の強い抵抗に遭い、決して圧倒的な勝利を収めたわけではなかったが、鉄甲船と大砲を備えた織田水軍は、朝鮮南岸の港湾に拠点を築くことに成功する。戦いは長期化したものの、秀吉は戦場での勝利よりも交渉に力を注ぎ、最終的には明・朝鮮との間で、拠点の維持と通商の公式化を条件とした決着にこぎつけた。

大陸での足場が固まると、信長の視線はさらに遠くへ向かった。宣教師たちとの交流を通じてヨーロッパの国力を知っていた信長は、史実で九州の大名たちが派遣した少年使節にならい、今度は織田政権として正式な国書を携えた使節団をヨーロッパへ送り出す(※この使節団は本作独自の設定である)。信長の側近と堺の商人から選ばれた一行は、日本の艦隊に護衛されて東南アジアまで進み、そこから先はポルトガル船に乗ってマラッカ、ゴア、喜望峰を経由し、二年ほどの航海の末にリスボンへ到着した。

当時、スペインとポルトガルは同じ王のもとにあり、使節団はマドリードでフェリペ2世に謁見する。交渉の結果、日本は両国の港での通商権と、日本船に対する航海上の保護を認められた。対等な軍事同盟ではなく、あくまで通商上の取り決めにとどまったが、ヨーロッパの王が、統一された日本の政権を公式な交渉相手として扱ったことの意味は小さくなかった。使節団は、航海術の書物や活版印刷の技術、世界地図などを携えて帰国する。

東南アジアへは、艦隊が護衛する商船団が定期的に往来するようになる。ルソンやシャム、マラッカなど各地には日本人の居留地が生まれ、日本は東アジアから東南アジアに及ぶ海上交易に、直接参加する国家へと変貌していった。

その後の世界

遠征の決着を見届けた信長は、政務の多くを嫡男・信忠に譲り、晩年は堺で艦隊の整備を見守りながら過ごした。信長は天寿を全うしたと伝わる。国内の恩賞地の問題を海に逃がすという信長の構想は、確かに一度は成功したかに見えた。

しかし、その成功は新しい問題の種を孕んでいた。朝鮮南岸の拠点を預かった秀吉は、現地の統治、艦隊の運用、大陸との交易の利益を手にし、次第に中央から独立した大きな力を持つようになる。拠点を任された武将たちは、秀吉の系統を含め、艦隊と交易の利益を背景に自前の財源と兵力を育てていった。国内の領地を巡る争いを避けるために生まれた海外の拠点が、今度は中央と地方の力関係を揺るがす新たな火種となったのである。

信忠の代になると、この緊張は表面化する。海外拠点の武将たちが独自の判断で現地の勢力と交渉を進める姿勢を見せ始め、中央の統制との間で、一時は武力衝突も辞さないほどの対立に発展しかけた。このとき調停役として重きをなしたのが、海外に出ず国内の守りを担い続けてきた家康である。家康は海外拠点の武将たちの独立性を認めつつも、拠点の統治には中央から奉行を派遣して監督するという折衷案をまとめ上げた。こうして海外拠点は、中央の監督のもとで運営される制度として落ち着いていく。

一方、ヨーロッパとの通商路は、その後も細く長く維持された。日本人の航海士や通訳はポルトガル船に乗り組んでインド洋やアフリカ沿岸の航路を学び、ゴアやマニラの港には日本人の商人が常駐するようになる。ヨーロッパで描かれる世界地図には、分裂した島々ではなく、一つの政権が治める国として「日本」が記されるようになった。

とはいえ、これはあくまで世界への足がかりにすぎなかった。日本は海の向こうに確かな足場を築いたものの、その足場は決して大きなものではなく、朝鮮との関係には遠征の傷跡が残り続け、明との通商も対等とは言い難い限定的なものにとどまった。ヨーロッパとの関係も、遠く離れた通商相手という域を出ず、東南アジアの居留地も、商人たちの小さな共同体であり、領土的な支配を伴うものではなかった。

それでも、この世界線の日本人にとって、海は「境界」ではなく「道」として意識されるようになる。信長が築いた水軍と港湾の仕組みは、世代を超えて受け継がれ、日本の対外関係の土台として機能し続けた。

まとめ

この世界線では、本願寺との戦いを終えた水軍を信長が解体せずに育て続けたことが分岐点となった。その艦隊は、毛利との戦いを海から決着させ、信長を京ではなく堺へ導き、結果として史実で信長の命運を分けた場面そのものを消し去ってしまう。天下統一を成し遂げた信長は、秀吉に海を、家康に陸を預け、大陸に拠点を築き、さらにヨーロッパの王のもとへ正式な使節を送った。それは世界征服という華やかな夢にはほど遠い、小さな一歩にすぎない。しかし、日本が一つの国として世界と向き合う最初の足がかりを築いたこの世界線の信長は、天下人のその先を歩んだ人物として記憶されている。

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