戦国時代

戦国時代(1467〜1590) 群雄割拠の日本史最大の変革期

【織田信長】本能寺を生き延びた世界線

もしも織田信長が本能寺の変を生き延びていたら?世界線を徹底考察

※本記事は史実をもとにした歴史考察記事です。 実際の歴史とは異なる仮説・創作的要素を含みます。

史実の背景

1582年6月2日未明、京都・本能寺に宿泊していた織田信長は、家臣・明智光秀の突然の襲撃を受け、自害に追い込まれた。事件当時、信長は武田氏を滅ぼし、畿内から東海・北陸・中国地方までをほぼ掌握しており、残る大勢力は毛利氏と北条氏のみという、天下統一目前の状況にあった。

明智光秀は丹波平定などで大きな功績を挙げた有能な武将だったが、1582年に入ると立場が不安定になっていく。長年担当してきた四国外交の方針転換や、領地替えの噂、家康接待での失態など、光秀が精神的・政治的に追い詰められていたとする説が有力である(※動機については諸説あり、確定した史料的根拠があるわけではない)。

6月1日、信長は秀吉の毛利攻めを支援するため京都に滞在しており、護衛はわずか百名ほどだった。同じ頃、同盟者の徳川家康も信長の勧めで畿内を遊覧しており、堺から京都へ向かう途上にあった。光秀は1万を超える軍勢で本能寺を急襲し、信長は自ら寺に火を放って最期を遂げる。嫡男・信忠も同日、二条御新造で自害した。光秀の勝利はわずか11日後、秀吉の「中国大返し」による山崎の戦いで潰える。

分岐点:どこで歴史が変わったのか

この世界線の分岐点は、光秀の軍勢が本能寺を包囲する直前、信長がわずかな側近とともに脱出に成功した瞬間である。

光秀の進軍が異様に早いこと、周辺の動きに不自然な点があったことなど、複数の兆候を信長が読み取ったとする(※信長がこの時点で謀反を察知していたことを示す確たる史料はなく、本作独自の解釈である)。京都に留まることの危険を悟った信長は、ちょうど堺から京都へ向かっていた家康と合流する道を選ぶ。

なお、嫡男・信忠はこの世界線でも、信長とは別行動をとっていた二条御新造で光秀方に包囲され、そのまま自害している。信長一人が生き延びたことで、この世界線の織田家は「当主は生きているが、跡継ぎは失った」という、史実とは異なる形の危機を迎えることになる。

この世界線の織田信長

死を間近に感じたこの経験は、信長に大きな変化をもたらす。生存そのものが薄氷の上に成り立っていたことを痛感した信長は、光秀の謀反を許した情報網の不備や、家臣の不満の兆候を見抜けなかった自らの油断を深く悔いたと伝わる。以後、家臣団の統制や情報収集により力を注ぐようになり、かつての苛烈さの中に、以前より慎重な判断が混じるようになったとされる。

一方で、信忠を失った衝撃は信長の中に消えない影を残した。後継をどうするかという問題は、信長自身にとっても、以後の政権運営における大きな課題として重くのしかかり続けることになる。

この世界線の歴史

本能寺を脱した信長は、単独で光秀に立ち向かえるだけの兵を持たない。京都に留まることの危険を悟った信長は、家康と合流する道を選ぶ。家康の手勢もわずか三十数名程度に過ぎなかったが、同盟者二人が揃って生存しているという事実そのものが、後の展開において大きな意味を持つことになる。

合流した二人は、家康に従う家臣団に守られながら伊賀を抜け、家康の本拠・三河、さらに信長自身の本国である尾張方面を目指す。道中、信長は近隣の家臣(大坂で四国出兵の準備を進めていた丹羽長秀、および尾張・美濃の譜代衆)に使者を送り、自らの生存と挙兵の意志を伝えていく。

一方、中国地方で毛利氏と対峙していた秀吉のもとには、信長横死の報のみが伝わっていた。秀吉は史実と同様に毛利方との和睦を急ぎ、「中国大返し」を敢行して畿内へと引き返す。尾張にたどり着いた信長は、丹羽長秀ら畿内近郊の家臣が集めた兵と、東から向かう秀吉軍という二方向からの挟撃態勢を整え、山崎へ向けて進軍を再開する。

信長生存の報は、秀吉軍はもとより、光秀方についていた諸将にも動揺を広げた。光秀の求心力は主君殺しという大義の弱さに支えられていたに過ぎず、信長本人が生きているという事実が伝わったことで、日和見を決めていた諸勢力も次々と秀吉・信長方に転じていく。山崎の戦いは、史実よりもさらに一方的な決着となり、光秀は敗走の末、落ち武者狩りで命を落とした。

信長は自らの生存を最大限に活用し、光秀を討った功績を秀吉・丹羽長秀・そして自らを守り抜いた家康と分かち合う形で政権の求心力を回復させる。ただし、嫡男・信忠を失ったことで、後継体制の再構築は避けて通れない課題として残った。信長は次男・信雄、三男・信孝を中心に、当面は自らが後継問題に直接采配を振るう体制を敷き、清須会議に相当するような家臣間の権力争いは起こらないまま、政権は信長個人の権威のもとで再統合されていく。

その後の世界

信長は光秀の乱を教訓に、家臣団の再編と権力の分散抑制を進める。秀吉には引き続き中国方面の平定を任せる一方、家康・勝家ら他の有力家臣にも役割を分担させ、特定の家臣に権力が集中しすぎないよう目を配るようになる。この結果、史実で秀吉が急速に台頭したような一極集中は起こらず、織田政権は複数の有力家臣に支えられた体制として推移する。危機を共に乗り越えた家康は、他の家臣以上に厚い信頼を得る間柄として、以後も織田政権の重要な同盟者であり続けた。

天下統一は、信長存命のまま史実よりやや早く進む。毛利氏との和睦、北条氏の服属を経て、1580年代のうちに日本全土が織田政権の支配下に入る。信長は安土城を中心とした政治都市構想を引き続き推進し、南蛮貿易や鉄砲・造船技術の導入にも積極的な姿勢を崩さない。

対外的には、信長の存命によって豊臣政権も江戸幕府も成立しないため、後の世に見られるような鎖国政策は採用されず、南蛮諸国との貿易は継続的に拡大していく。ただしその規模は、あくまで貿易国家としての発展にとどまり、日本が東アジアの覇権を握るような軍事的拡大には至らない。堺・長崎といった港町は貿易拠点としてさらに栄え、キリスト教も政治的な統制下に置かれながら一定の布教が許容され続けた。

文化面では、南蛮文化と茶の湯・能といった従来の武家文化が並存する形で定着し、安土は政治・文化の中心地としての地位を長く保つことになる。信忠を失った信長の後継は、最終的に信雄・信孝のいずれか、あるいはその子孫へと引き継がれ、織田家を中心とした政権が、豊臣・徳川という後継王朝を挟まずに、そのまま近世日本の統治体制として続いていくことになった。

まとめ

この世界線では、わずかな兆候を見逃さなかった信長が本能寺を脱し、堺から京へ向かっていた家康と合流したことで、九死に一生を得る。二人の同盟者が揃って生き延びたという事実が畿内の動揺を鎮め、秀吉の中国大返し軍と合流して光秀を討つことに繋がった。しかし生き延びた代償として、嫡男・信忠を失うという痛みは避けられなかった。豊臣政権も江戸幕府も生まれなかったこの世界線では、織田家がそのまま近世日本の統治を担い続けることになる。九死に一生を得た信長がその後何を選び、何を築いたのか――その答えは、この世界線の中に静かに刻まれている。

織田信長の世界線一覧

【織田信長 】足利義昭と協調し続けた世界線もしも織田信長が足利義昭と協調し続けていたら?世界線を徹底考察
【織田信長】信長包囲網が崩れず、信長が敗北した世界線もしも織田信長が信長包囲網に敗北していたら?世界線を徹底考察

もしも織田信長が豊臣秀吉と出会っていなかったら?世界線を徹底考察もしも織田信長が豊臣秀吉と出会っていなかったら?世界線を徹底考察
もしも織田信長が南蛮文化を拒絶していたら?世界線を徹底考察もしも織田信長が南蛮文化を拒絶していたら?世界線を徹底考察

もしも安土城が政治都市として完成していたら?世界線を徹底考察もしも安土城が政治都市として完成していたら?世界線を徹底考察
もしも織田信長が世界進出をしていたら?世界線を徹底考察もしも織田信長が世界進出をしていたら?世界線を徹底考察

織田信長(おだのぶなが)とは?史実ともしもをわかりやすく解説【歴史人物解説】


この世界線の展開や、もしもの物語が浮かんだら、コメント欄でそっと教えてくださいね。


本記事は史料・通説をもとに、伝承・逸話・諸説も参考にして構成しています
■参考文献
・『信長公記』太田牛一
・『織田信長』小和田哲男
・『逆説の日本史』井沢元彦 
・『戦国武将、虚像と実像』呉座勇一

※当サイトでは歴史資料・研究書を参考に記事を作成しています。

運営
本記事はHAZUMU RHYTHMが監修・編集しています。

関連記事一覧

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)