
もしも織田信長が足利義昭と協調し続けていたら?世界線を徹底考察
史実の背景
永禄十一年(1568年)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、混乱していた京都を制圧した。義昭は室町幕府第15代将軍として擁立され、信長はその後見人として政務を支えた。翌年の「殿中御掟」、さらに永禄十三年(1570年)の「五ヶ条の条書」により、信長は義昭の独断的な行動に制約を課す。これらは近年の研究では、将軍権力を完全に奪う内容というより、軍事は信長、京都での政治は義昭が担うという役割分担を定めたものだったとする見方も有力である。
しかし義昭は次第に将軍権力の実質的な回復を望むようになり、独自に諸大名へ働きかけるようになる。元亀年間に入ると両者の対立は決定的なものとなり、元亀三年(1572年)、信長は義昭の違背を咎める「異見十七ヶ条」を突きつけ、公然と非難した。それでも義昭は武田信玄・朝倉義景・浅井長政・本願寺顕如らと連携し、翌天正元年(1573年)に信長打倒の兵を挙げるが、信長の軍事力の前に敗れ、京都から追放される。これにより室町幕府は事実上の終焉を迎えた。
なお、義昭と信長を仲介した人物の一人が明智光秀であり、光秀はもともと義昭の家臣という出自を持つ。義昭追放後、光秀は織田家臣として重用されるが、その後の四国政策の急転換や信長からの度重なる叱責により、次第に立場を追い詰められていったとされ、これが本能寺の変の遠因の一つとする説も有力である。
分岐点:どこで歴史が変わったのか
この世界線の分岐点は、元亀三年(1572年)末、義昭が「異見十七ヶ条」を突きつけられた直後の判断にある。
史実の義昭は、この叱責を受けてもなお武田信玄らとの密約を進め、翌年の挙兵に踏み切った。しかしこの世界線では、折しも武田信玄が病を篤くしているという情報が義昭のもとにも伝わる(※信玄の発病時期・進軍中止の経緯には諸説あり、本作ではこれが義昭の耳に早期に入ったという独自の解釈をとっている)。信長包囲網の軍事的な要である信玄を欠いた状態での挙兵は勝算が薄いと判断した義昭は、ひとまず矛を収め、異見十七ヶ条の内容を正式に受け入れる姿勢を示す。
信長もまた、義昭が土壇場で兵を引いたことを機に、彼を完全に排除するのではなく、監視を強めた上で将軍という「看板」を利用し続ける道を選ぶ。両者の関係は、信頼に基づく協調というより、互いの利害計算の上に成り立つ、緊張を孕んだ二頭体制として存続することになった。
この世界線の織田信長
この世界線の信長は、義昭を心から信頼するようになったわけではない。むしろ、一度は挙兵寸前まで至った義昭の危うさを警戒し、将軍御所への監視役を常駐させるなど、以前にも増して統制を強める。それでも義昭を追放しなかったのは、将軍という正統性の看板が、諸大名への政治的圧力として実利があると判断したためである。
この監視・調整役を任されたのが、義昭・朝廷双方との交渉経験を持つ明智光秀であった。史実以上に微妙な政治的バランスが求められるこの役目を、光秀は丁寧にこなし続け、信長からの評価を着実に積み重ねていく。信長は光秀の実務能力と冷静さを高く買い、「困難な役目ほど光秀に」という信頼が、この世界線ではより強固なものとして築かれていった。
この世界線の歴史
信長包囲網の求心力であった義昭が挙兵を見送ったことで、朝倉義景・浅井長政・本願寺勢力は、将軍という大義名分を欠いたまま個別に信長と対峙せざるを得なくなる。すでに信玄を失っていた武田方も本格的な上洛戦を継続する力を失っており、天正元年(1573年)、朝倉・浅井は史実とほぼ同様の時期に相次いで滅亡した。本願寺との対立も長期化するが、天正八年(1580年)頃までに信長方と和睦する。天正三年(1575年)の長篠合戦も史実通り発生し、信長の軍事的優位は揺るがないまま推移する。
この間、光秀は義昭・朝廷との調整役としての実績を重ね、外交面での発言力を強めていった。天正年間半ば、四国の長宗我部元親との関係を巡り、信長が方針転換を検討する局面が訪れるが、この世界線では光秀の意見が重んじられ、史実で見られたような急な方針転換と光秀の面目を潰す形での交渉打ち切りは行われなかった。光秀は外交担当としての面目を保ったまま、長宗我部氏との関係を穏便に着地させることに成功する。史実で光秀の不満の種となったとされる複数の要因が、この世界線ではいずれも生じないまま推移していった。
信長への叛意を募らせる理由を持たないまま、光秀はその後も信長を支え続ける。天正十年(1582年)に相当する時期、光秀は史実で本能寺への進軍を命じられた中国方面への援軍としてではなく、引き続き畿内の政務・外交を担う重臣として、信長のもとで働き続けていた。本能寺の変に相当する事件は、この世界線では起こらない。
その後も信長は、毛利氏との和睦、北条氏の服属を経て、天正十年代半ばまでに日本全土を掌握し、天下統一を成し遂げる。統一後の信長は、五ヶ条の条書を発展させた将軍家との二頭体制を維持しながら、安土城を中心とした政治都市構想、南蛮貿易の拡大を推し進めていった。晩年の信長は、かつて挙兵寸前まで至った義昭について、側近に「あの男を生かしたことが、儂の一番の分別であったやもしれぬ」と漏らしたと伝わる。統一を成し遂げてなお、義昭という危うい均衡の相手を切り捨てなかった判断こそが、この世界線の信長を特徴づけている。
その後の世界
天下統一を成し遂げた信長は、その後も政務にあたり続け、天正末期から慶長期に相当する時期まで存命したと伝わる。享年は六十代半ばに達しており、戦乱の世を生き抜いた武将としては異例の、天寿を全うする最期であった。将軍家(義昭の系統)と織田家という二頭体制は、信長の代を超えて後継者にも引き継がれ、豊臣政権や江戸幕府のような新たな王朝の樹立を経ることなく、織田家中心の統治体制がそのまま存続していくことになった。
対外的には、南蛮貿易は国家主導で拡大し、鎖国のような対外窓口の全面閉鎖は行われなかった。ただしこれは日本が東アジアの覇権を握るような軍事的拡大を意味するものではなく、あくまで貿易国家としての着実な発展にとどまる。堺・京都は政治・経済・文化の中心地として引き続き栄え、将軍家の伝統的権威と織田家の実務能力が併存する、独特の統治文化が近世日本に根づいていった。
文化面では、将軍家が存続したことで公家文化・室町文化が一定の地位を保ち続け、同時に信長が推進した南蛮文化も並行して受容される。二つの異なる文化的権威(将軍家と織田家)が併存したことで、日本の統治文化は史実以上に多層的なものとして成熟していった。
まとめ
この世界線では、武田信玄の死という一報が、挙兵寸前だった義昭の判断を土壇場で変えさせた。その結果として築かれた緊張含みの二頭体制は、信頼ではなく打算の上に成り立つものでありながら、明智光秀という有能な調整役を通じて、皮肉にも史実で信長の命を奪った本能寺の変そのものを防ぐことになる。天下統一を成し遂げ、天寿を全うした信長――劇的な死によって歴史に名を刻んだ史実の姿とは対照的に、この世界線の信長は、静かに生き抜いたことによって、もう一つの偉業を成し遂げた人物として記憶されている。
織田信長の世界線一覧
⇨織田信長(おだのぶなが)とは?史実ともしもをわかりやすく解説【歴史人物解説】
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■参考文献
・『信長公記』太田牛一
・『織田信長』小和田哲男
・『逆説の日本史』井沢元彦
・『戦国武将、虚像と実像』呉座勇一
運営
本記事はHAZUMU RHYTHMが監修・編集しています。ゲームをきっかけとして歴史に興味を持ち、『信長の野望』『三國志』シリーズを通じて戦国・古代史を中心に学習。関連書籍や史料を読みながら、史実に基づいた考察を継続している。 本サイトでは「歴史のもしも」という視点から、実際の出来事や人物をベースにした仮説・可能性をわかりやすく解説することを目的としています。
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